明星院の歴史

 明星院は、広島市の東北に位置し、二葉の里の北端にあり、背景には緑水したたる二葉山を負い、前には太田川の清流を臨み、境内およそ二千二百五十余坪、古松老木鬱蒼として繁茂し、森々として自ら荘厳の風趣を有する。月光山大日密寺と号する真言宗御室派の名刹で、もと南光月素月山妙壽寺と呼ばれていた。

藩政時代の明星院

一、 毛利家・福島家時代

 住古の開基並びに根本開山の僧名は詳らかではないが、毛利家・福島家時代の寺伝によれば、明星院の前身妙壽寺は、天正十七年(一五八九)毛利輝元が、吉田郡山城より広島へ移城開府の時、御母儀の御位牌所として建立し、宗旨は褝宗なりとある。又、諸木に「毛利公広島開発の時、明星院山・比治山・己斐松山に登りて城地を見立てた」ことや、広島山端川禅寺縁起(現光町聖光時)に「同時のことをいえる所に隣寺明星院という事」の記述を見ると、天正十七年より以前に此地存在していたいようも考えられる。
 次いで慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いの戦後処理により、毛利輝元は防長二か国に減封となり、福島正則が入封となる。その折、伊予国右手寺の住僧栄鏡を招いて、寺領二百石を附して、真言宗新儀派(京都・智積院末)とし、祈祷寺に命じたのである。正則は芸備両国へ入部すると、毛利時代に領内の社寺に寄進されていた杜寺領を安堵せず、そのほとんどを、召し上げている。県内の多くの杜寺の由来書には、「所領を没収されて荒廃した」と記されており、明星院は特別の扱いを受けていいたとうかがえる。

二、 浅野家時代

 元和五年(一六一九)広島城無断修築を法度違背に問われて福島正則が改易され、和歌山城主浅野長晟が入封すると、紀伊国愛王院の僧秀海を招いて住職を仰付け真言宗古儀派(仁和寺末)に改めるのである。
 この時代には傅正院殿(浅野長政)長正院殿(長正室)両尊牌を安置し寺領二百石を賜るとある。
 又、境内地が御城の鬼門(艮)にあたるを以て国家鎮護の祈祷所と定められる。毎年正・五・九月の十二日、住職が八人の伴僧を随えて登城し、城内に於て大般若経転読秘法の祈祷を修業し奉る。大般若御礼をも印刷して之を頒つとある。
 この御祈祷の本尊や大般若御礼の判木などは、和歌山城にて用いる品々をそのまま持来たり、五大吉長の御代まで御城に残されて御祈祷前日には、役僧が御城にまかり出て御書院にて御礼をととのえ、祈祷後明星院本尊前へ納めさせている。
 又、藩主在府の年は、年頭の祈祷に護摩供を執行し、御守札・巻数並び油煙墨・扇子を献ずると、辺札として藩主より親書を賜っている。その他、吉凶の御機嫌を伺って献上物をなす時も、必ず親書を賜ことも歴代藩主の恒例となる。
 初代藩主長尾御入国以来、明星院へは毎年御格式の御成があり、年頭には必ず三が日のうちに御参詣されている。
 その時には、すぐに書院へ入られ、御手附の蓬葉ただちにさしあげ、ことぶきを申しあげたとある。更に御成用の御膳があり、吉例の御料理はりはり牛旁(酢牛房のたぐい?)をさし上げている。又、江戸より御帰城のうえ、初めて御参詣にも、年頭の時の通り、お手附昆布を差し上げただちに御帰国の御祝を申し上げる事は、五代藩主吉長の時代まで続く。
 しかしながら、五代藩主宗恒よりそのことはたえ、ただ年頭と御帰城初めて御参詣には、御手附の昆布を差し出しておくだけとなる。元和八年(一六二二)古儀二世在海が住職に任ぜられた時、藩内五カ寺(天台宗松栄寺・真言宗明星院・禅宗国泰寺・浄土宗正清院・法華宗日通寺)の一つに数えられ、又、真言宗一派の触頭を仰付けられる。その後庭儀伝法権頂を高野山宝亀院清融法印を大阿闍梨に招請して、厳修している。
 元禄十一年(一六九八)四世成印の時、京都御室より寳光院が一時兼帯している。
 享保二年(一七一七)五代藩主吉長が未だ世子のない事を深く憂いていた時、江戸に於て夫人懐妊されたとの報あり。陰陽師などの占いによると、この御子は姫君であると伝えられる。吉長は、男子を得んことを望まれ、五世暾高に命じて変生男児の御祈祷を仰付けられる。同年三月晦日より開白しえt、百ヶ日間の大法秘法御祈祷し、伴僧として一派の衆僧残り無く出席している。更に、五壇護摩大法を七月二十日より二十二日まで三日三夜修行仕り、御祈祷七十日目に当たられる六月十日に御札守御頂物等を差し出すと、すぐに江戸へ使わされ御簾中より頂載なされて、御満足おぼしめされる。五世暾高はこの御祈祷勤行の間は、禁足し髪を剃らず爪を切らず、堂内を動かず祈り奉り、百日の行法・五壇の大法まで炎熱のうちに始終首尾よく結願し、御満足頂いたとあり。かくて、七月二十三日午刻、岩君御誕生ましまし幼名仙太郎、即ち後の藩主宗恒なり。吉長感喜し、これを似て祈祷の験となし、九月九日寺願百日を加えて三百石に加僧している。また、祈祷に出仕した衆僧は、嚢銀を賜っている。
 その後、暾高は浅野歴代の主君の中で、長命のほうが甚だまれである事を憂いて、密かに寿命長久の祈祷を修行して懈怠なく続けている。これを聞いた吉長は、大いに悦び、暾高・六世本常遷化の後、享保六年(一七二一)更に長寿の祈祷を命じ、祈祷料を寄附させられている。
 爾来、毎年正・五・九月には、毎月二九日より当月朔日まで二夜三日の間、二十人の伴僧を率いて寿命長延の祈祷に丹誠を凝らし、普厳延命尊大法・同護摩供・聖天供・十二天供・神供等に秘法を修業し、明治維新前に至るまで一度も怠ることなく続けられている。
この時代に祈祷はしきりに行われ、暾高・本常・七世成眞の三僧の熟誠を以て、国家安全の祈祷所として鎮国堂(宝珠堂)を建立している。
 その後十一世紀泰憧の時に七代藩主重晟により、天明六年(一七八六)愛染明王像を造立し祈祷を命じている。泰憧は、三百余日の間禁足し、特別祈祷秘法部如法愛染法を修行し、これにより、藩主の志願悉く成就されるのである。

≪鎮国堂の建立≫

 これより先、享保元年(一七一六年)暾高、藩府に請い、大阪小橋興徳寺に詣り、密教寺相法流の伝を受け、又、京都に往き御室御所山内眞乗院大正に謁見し、本式秘密仏壇等の装置を学び、その指教する所により、祈祷堂必要の器具を工匠に命じて制作せしめ、同年十二月に至ってこれが成る。しかし、暾高はなお未だ以て足りれとせず、更に本藩のような雄藩に適応する本式の祈祷堂を建立すうrことを記企望し、翌年再び藩府に請うが、藩府は財政上の故あって未だこれを許さず、しばらく延期すべきことを命じている。
その志ならず、暾高は享保三年(一七一八)遷化、後ち六世本常も又その遺志を継ぎ同五年も又その遺志を継ぎ同五年、自力を以てこれを建立すると藩府に請い許しを得る。
 而してその自力建立の費用、若干を貸与せられている。是において本常は、藩士及び仕郡人民の寄付金を募集し、暾高が計画したものに準じて、ついに工を起こすに到る。しかし、造営中同年、不幸にして本常も変遷化す。これをもって当時の法縁あるもの達が、前院主の遺志を継ぎ、共に力をあわせて、工事を進行し、その須弥壇等は、大阪に於いて製作する。ついに落成し、輪奐美をつくりせり。この堂は、はじめは法珠堂をいい、後鎮国堂と称し、又、不動堂・延命堂よも称す。
宝珠堂の号は、堂中に宝珠を蔵するに因る。この宝珠はもと徳川家康が、陣中常に懐中した所のもので、後に高野山南院に奉納したものを、彼の興徳寺の阿闍梨に伝え、暾高秘法部伝授の時、といにこれを伝え受けたものと伝う。又、常には鎮国堂と称し、その偏額は宝鏡寺宮の染筆である、全体の構造は、いわゆる紫宸殿作りで、往昔、弘法大使空嵯峨天皇の勅により、大法秘法を紫宸殿に修行した規模にならったものである。本尊は、五代明王、普賢延命菩薩で共に京都大仏師北川運長の作にして、その妙技をとくし、皆金紛極彩色をほどこしている。仏具も又これに準じて堂中に光輝を放って燦爛たり。暾高が遷化してよりここに至る三年その遺志始めてなれり。
 毎年藩主は自ら参拝し、爾来愛染明王供養を永代に執行することになる。
 これより以前の四代成印の時、四代藩綱長は、太祖長政及び同夫人の伊牌堂建立し、斎米として十石を備えられるが、後十二世高誡の時、文化七年(一八一〇年)長政公二百回忌に当たって、八代藩主斉賢は、その位置を替えてこれを改築し、寺領は、永代百石を寄附され、総て四百石となる。

明治・大正時代の明星院

 天保十三年(一八四二年)の火災より二六年余りを経た明治維新の後、寺領が廃止され寺院の維持困難に陥り、まさに廃寺の悲運に遭遇せんとした時十六世眞田眞随は寺院の維持困難に陥り、まさに廃寺の悲運に遭遇せんとした時十六世眞田眞随は幸酸を嘗め力を維持につくし、明治九年(一八七六年)不動堂(四間に二間)を、同二十七年(一八九四年)に庫裡(二間半に三間)を再建する。
 明治三五年(一九〇二年)十九世斉木公恵の時に至り八木新兵衛なるが、名刹のいに廃滅することを歎き、巨萬の資を献じて、明治四二年から大正二年にかけて本堂・庫裡・御影堂径堂・金楼堂・表門・仁王門・赤穂義士堂・家屋・物屋部屋等を建立し普請落慶法要を厳修する。

昭和・平成時代の明星院

 広島藩祈願寺より旧御室御所仁和寺別院へと変革があるなかで江戸末期焼失した伽藍も明治から大正にかけて旧に復していった。しかし、この偉容を誇った明星院にかつてない危機が訪れた。昭和二十年八月六日原子爆弾により一瞬にしてすべてが灰燼に帰してしまったのである。いかに由緒ある寺といえども、復興は思うように任せず、焼け跡は次第に荒れるにまかせることになる。以後、三代の住職により法燈は絶やすことなく守り続けられ、かかる盛衰のなかにあって受難の時代を乗り越えて今日を迎えたのである。